関西現代俳句協会

2011年3月のエッセイ

俳句のふるさと伊丹

伊丹 公子

 数年前から「ふるさと」の語の意味にとらわれていた。で、偶々依頼を受けた誌のエッセイの中でも述べた。「ふつう故郷といえば生まれ育った地を指すものであろう。(中略)が、ふるさと感というには、やや異なるものがある」と。これは、私が幼年期より、転勤族の父に従って、多くの地に住んだ故であろう。ふるさと感の地はひとつではなかった。というより、土地と同時に、人と関わるものとなった。前出の誌に「幻想的な懐しさ」と述べた、生国としてのふるさと高知。俳句のふるさと伊丹。詩とエッセイのふるさと東京。すべての文芸のふるさと神戸。尼崎。

 この稿には、俳句のふるさと伊丹のことを書く。もっとも、あちらこちらに書いているので、内容に重複の個所があるかもしれないことのお許しを乞う。

 私の俳句入門は、昭和21年3月、三樹彦に出会い師事したことによる。前20年8月、日本は第2次世界大戦に敗れ終戦。三樹彦は軍務を解かれ、伊丹の実家に帰っていた。戦時中俳壇を退いていた日野草城の住処を、さがし求め、豊中の桜塚元町の住処を知る。同年10月下旬、小寺正三、古屋久男と共に、師の俳壇復帰懇請にその家を訪うて諾を得ている。

 軍隊で炊事軍曹をつとめていたとき、俳句の世界へ引き入れた楠本憲吉と安川貞夫が、「生命永らえたならば」との約束を守って、伊丹の三樹彦居を訪ねてきたのも同年秋であった。

 21年11月、草城指導、三樹彦編集発行の同人誌「まるめろ」が創刊された。まだ用紙の乏しい時代であった。が戦時中の、文芸表現への統制が解かれ、活気ある空気が流れていた。同人には、前記の正三、憲吉、貞夫のほか、三樹彦が大阪の自宅まで訪うて参加を慫慂した桂 信子の名もみえる。新人は、私と同世代の、20歳前後の女性たち4人がいた。

 句会はしばしば、三樹彦宅の中2階でひらかれた。伊丹は元々城下町で、古風な佇まいの町だが、三樹彦宅のある横丁の辺りは、ことに古町で、江戸時代、明治時代を想像させる家並であった。虫籠窓を嵌めた中2階は仄暗く、天窓から僅かの明りが流れていた。集まった10人ばかりは、これからの新しい俳句のことばかり喋り、眼をきらきらさせた。句会は、豊中の萩の寺で開かれることもあり、その日は、帰りに近くの草城宅を訪うた。草城は、私たち4人を、「三樹彦の育てている伊丹乙女」と呼んで慈しんでくださった。大和古寺吟行には、しばしば出掛けた。

 私事にわたるが昭和22年4月、私は三樹彦と結婚した。句友のうち、ただ一人既婚者であった小寺夫妻の媒酌で、かの時代劇みたいな三樹彦宅で、式を挙げた。

 24年10月、草城主宰の「玄」が創刊され「まるめろ」は合流する。草城は、病床に在られ「玄」にて、その文業を全うされて、31年1月29日逝去された。

 同年10月の玄7周年大会のあと、同人会議が開かれた。合議により「玄」は存続、三樹彦を主幹と決定した。

 その日から50年の歳月が過ぎた。平成17年7月、三樹彦は脳梗塞に倒れ、主幹を辞す。「玄」は終刊となる。翌18年9月、後継誌として、発行人伊丹啓子の「青群」が創刊された。病より奇跡的に蘇った三樹彦は、その顧問をつとめている。いま彼の時間は、俳句を作ることに終始している。

 俳句入門の遙かな日も、ただいまの時間も私には、同じたいせつな重さと、確かさで、感じられる。伊丹の町並は、60年昔とは、ずいぶん変わったが、直ちにあの美しき時間、懐かしきひとびとを眼の前に現出させることができる。

2011年2月1日 記 

(以上)

◆「俳句のふるさと伊丹」(はいくのふるさと いたみ):伊丹 公子(いたみ きみこ)◆