関西現代俳句協会

2010年11月のエッセイ

正岡子規について

播磨 穹鷹

 私の中に棲み続ける疑問が一つあった。それは、なぜ正岡子規が愛媛県松山出身かという事であった。その疑問が、あらぬところから解けた。私が代表をしている、ロマネコンテ俳句ソシエテの山崎句会に、突然、正岡民穂なる女性が現れたのである。

 正岡民穂氏が出席した最初の句会で、「正岡民穂です、どうぞ宜しく」と、自己紹介をされた、その時は、あゝ、正岡さんね、という事で句会が始まった。しかし次の句会の折に、それでもと思って、「正岡さんは、正岡子規に謂れのある方で御座いますか」と尋ねますと、こともなげに、「はい、そうです」との答えが返ってきた。句会の中に驚嘆の雰囲気が漂った。

 よく聞いてみると、ご主人が、正岡一族の裔だという事であった。もう少し詳しくお話、訊きたかったのであるが、句会を放棄する訳にもいかず、後日、ご主人に、お話を伺いに行くということで、ご了解を頂くようにお願いをして、句会を進めた。

 数日後、ご主人が、お会いしましょう、とのご返事で、後日、お伺いしました。ご主人は、トヨタ自動車の企画等をなされ、今は引退、田舎(山崎)に移られ、悠々自適の生活のご様子。ご子息は、某大学の教授を目指されて勉学中との事であった。又、ご主人のお兄様は、瀬戸内海の小さな島の禰宜(神主)をしておられますとの由。

 話の最初に、なぜ正岡子規は、松山に居たのですか、という疑問を投げかけた。その答は、「実は正岡一族は、大阪の豪族です。大阪に、正岡寺という、禅宗のお寺があります、正岡はそこの一門です。」と、いう答えが返って来た。ここで私の疑問は半分解けた。

 続いて、正岡さんは、「実は正岡は、大阪の豪族だったので、戦が起こる度に、諸侯から、戦に参戦の依頼が来ておりました。では、なぜ松山か、ということですが、実は、源氏・平家が戦っていた時代に、正岡一族は、時には平家に付き、時には源氏方に付いていました。が、壇ノ浦・屋島の合戦の折には、平家方に付いており、平家が壇の浦で滅びましたので、従軍していた、正岡一族は、散乱。

 大阪にも源氏の追っ手が回っており、戻れませんので、香川にて、行き場を失った正岡の頭領は、『これから、石鎚山に入る、付いて来る者は付いて来い』と言い、香川より、近習を、愛媛県今治ルート三十旗と、徳島からのルート(旗数は不明)の二手に分け入植したが、定住はなかなかならず、石鎚山を彷徨い、最終的に愛媛県と高知県の県境の石槌山の「久万」(くま)という所に落ち着いた」という事であった。

 「久万」(くま)では、色々とご苦労もあったようで、一番の困難は、豊臣秀吉の、検地刀狩りであったようである。秀吉は、農民出身であった為に、ことに武門を嫌い、武門を根絶やしにしたかったようで、厳しい攻めにあったようである。防御・避難のために、山野に縦横のトンネル・抜け道を造り、畑仕事・山仕事をしていても、すぐに戦えるようにと、耕具を改良してドウダヌキという刀とも、耕具とも判らぬものを、常に携えていたそうである。

 正岡民穂氏のご主人の正岡 進氏は、祖父の代から松山に下りられましたが、久万(くま)に残る人もあり、正岡子規のご先祖様は、その二、三代まえに松山に下りられ、お父さんは松山藩士・正岡常尚、お母さんは松山藩の儒者・大原観山の長女・八重さんで、子規は長男として生れました。五歳にして父が没したため、家督を継いだそうです。成人した正岡子規は、松山で、新聞記者、等をしていたそうである。

 ここからは皆様がよくご存じの、正岡子規であります。

 慶応三年 (大政奉還の年)生まれ。同年生まれに、夏目漱石・幸田露伴・尾崎紅葉らがいる。明治三五年、三五歳に満たぬ若さで没。

 もう少し詳しい話(資料)が御座いますが、今日はここまで、又の機会に。

(以上)

◆「正岡子規について」(まさおかしきについて):播磨 穹鷹(はりま きゅうおう)◆