関西現代俳句協会

2010年 4月のエッセイ

「義経道(よしつねみち)」

桂 鴻志

 私が住職を務めている掎鹿(はしか)寺塔頭大乗院の境内数百メートルに渡って義経道が現存している。

 平家物語には「義経が三草山の合戦に勝利して、掎鹿の里で休息した。」としるされている。

 史実によると、義経の軍は、現在の小野市を経て三木市湯のまち街道(別名有馬街道)を経て、須磨一の谷の合戦に向かったとある、

 何故、平家物語と史物が異なっているのか。私の想像によると、義経は絶えず、大軍とは行動しないで「義経主従」の少人数で、行動するのが常であったと思われるので、伝説の残る義経道が、有名になって、今日まで義経主従の通った道が義経道として残っている。

   義経道割って田水を引きにけり   鴻志

 平家物語にでてくる「掎鹿の里」は現在も「掎鹿谷」として地名が残っている。

 播磨風土記にも「掎鹿の里」は残っている。

 源平合戦の場となった三草山は、丹波の国と播磨の国の境にある山である。

 京の都を木曾義仲によって追われた平家は三草山にたてこもったところ、頼朝の平家追討の命をうけた義経に攻められたのが、三草山の合戦である。

 三草山合戦について、土地の人が、語り伝えている面白い話がある。

 「三草山に立てこもった平家は、三草山に竹の皮を敷きつめ、油をかけて、義経の軍が登れないようにしたところ義経は、火を放って、またたく間に、勝利を得た」と言うのである。

 史実によると「二日路を一日うッて、播磨と丹波のさかひなる三草の山の麓の山口、小野原にこそつきにけれ」とあるところから、義経は、通常二日の行程を一日で馬をとばして辿り着いている。

 源氏は初め、寿永三年二月五日に、攻めようとしたが、その日は、清盛の命日なので、平家に法要を営ませようとして、見送った。

 平家の軍は、七千余騎が三草山の西の麓に陣を取っている。小野原に着陣の夜、義経は土肥実平らを呼び「夜討にすべきか、明日の夜明けを待つべきか」と相談している。

 思うに、源氏は強行軍で進んできたのだから兵士は疲れていると、実平が思案していると、田代信綱が「味方は一万余騎、平家の勢は三千余騎で、味方が有利である。もし明日の朝まで待てば、平家軍の援軍が来るかもしれない。今夜のうちに夜討すべし」と進言した。実平も「よくぞ言った」と賛成し、直ちに夜討と決まった。

 ところで夜討に大軍を動かすのは、むつかしい。そこで、義経は、建物や野山の木々や草に火を放ったので、昼のような明るさとなったという。この事が、竹の皮に火を放った伝説を生んだのだと思われる。

 一方、平家は敵が夜討をかけてくるなど想像もせず、ぐっすり休み、明日の戦いに備えよとお触れが出ていたという。

 三草山の合戦で勝利した義経は、大軍とともに行動しないで、三草山の東南にあたる畑(はた)の登山口に出て「義経主従」は掎鹿の里に向かった。途中義経は掎鹿寺で野営したと伝えられている。義経道は、境内をすぎると昔の姿が今に残る坂道に出て三木へと続く、三木からは神戸市北区の木津を経て、鵯越に出たと想像される。一の谷で平家を討ったのは平家物語で有名である。

  毛虫踏み義経道の空晴れる   鴻志 

(以上)

◆「義経道」 (よしつねみち) : 桂 鴻志 (かつら こうし)◆