関西現代俳句協会

2009年 11月のエッセイ

「城」

原 尚子           

    松山や秋より高き天守閣 正岡 子規

 国内を旅行するとあちこちで城、または城跡に出会う。それは堂々たる天守閣を残したものもあったり、また石垣だけのひっそりしたものもある。そして、その地元の人にとっては、宝物であったり、誇りでもあるようだ。子規の詠んだ松山城は、なんとなくおだやかなたたずまいで、しかもなつかしく、現在の松山の街の雰囲気とよく合っているような気がした。岡山県津山市の城は天守閣などはすでに無いが、広い敷地に石垣がねむるようにあって、私が行った時には曼珠沙華が一面に咲いていた。このときの曼珠沙華は、かわいい、可憐な趣きがあって、私の心にしみた。この城跡もまた津山の街と共通した雰囲気があって忘れがたい光景であった。

 私の故郷にも城がある。姫路城である。それはまさしく市のシンボルであって街全体が城を中心に活動している感がある。私は、子供の頃から、ずうっとこの城を仰いで育った。生家の二階の北窓を開けると遥かに天守閣が見える。この角度から見る城が私は好きなのだろうか、いつもこの姿の天守閣を思いおこす。当時は、姫山(城のある山)には原生林を含めて木々が豊かに茂り、石垣や白壁で見えない部分も多かった。戦後、松喰虫の被害などのためそれらが見えはじめ、天守閣がいっそう高く感じられるのはよいが、裸になったようで気の毒な姿になったとも感じたものだ。それも見慣れてしまって、今では昔か らこんな姿だったような気がする。

 わたしの生活の中にも、城にまつわる話はいろいろある。とりたてて書く程のこともないといままであまり意識しないで過ごしてきたが、ふり返ればかなり多くのかかわりがあると思うようになってきた。小学生の頃二十センチほどもある大むかでに出会ってきゃあきゃあ大騒ぎしたのは、勤労奉仕で城内の清掃に行った時だった。先生に最もひどく叱られた思い出は、昭和20年7月4日未明の米軍の焼夷弾攻撃の前の頃だったと思う。「米軍の空襲があればお城へ逃げればよい。日本を占領した後お城があった方がいいから爆撃しないとアメリカがいっているそうだ」などといういわゆる流言蜚語をささやき合っていたのが先生方の耳に入ったらしい。

 その姿が白鷺のようにうつくしいとかで、「白鷺城」とも呼ばれ、1993年のユネスコ世界遺産登録とともに広く知られるようになった。(松の緑に白鷺の涼しく見ゆる姫山や) (鷺山に秋の夜は更けて城楼照らす松の月)などと校歌にうたった私たちにもうれしいことである。空襲の件については、先日のNHK「秘話アストリア」で実は1発だけ天守閣に焼夷弾が落ちたが、警備の方の機転によって事なきを得たことを知った。また、さかのぼって、藩籍奉還後、競売にかけられたこの城を一商人が23円50銭で落札したなどの危機があったが、数々の善意や幸運によって存続している。天守閣のありなしにかかわらず、全国のお城の伝統・人々のそれに対する思いにはそれぞれ素晴らしいものがあるのであろう。これからも大切にして行きたいものである。

 私はこれからも、JRで姫路方面へ向かって市川の鉄橋を渡るとき、北西に天守閣を見て、姫路へ帰ったな、やっぱり故郷なのだと思うであろう。