2006年5月のエッセイ「呑んべい」 加藤風信旗久しぶりに呑んべい仲間が集まった。職業は雑多である。久闊の辞もそこそこですぐ酒宴となる。音楽家がしみじみと酒は憂いをはらう玉箒というがその通りだと言うと酒屋の親父がそれを受けて 「酒に十徳がある。それぱ百薬の長、長寿、万人和合、旅に食あり、独居の友などで玉箒もその一つや」 音楽家が続けて「そういえばドイツでビール1本と塩キャベツは医者から金貨半枚を取りあげるとか、ビールには三つの効用がある。それは水の冷たさとミルクの栄養とワインの情熱だと言っている。ミュンヘンのホーフブロイを思い出すよ」と言うと皮肉屋の元教師が「兼好法師は酒はよろず病のもとであり、憂いを忘れるというが思い出してはまた愚痴をこぼし泣くと言ってるぞ」。 一同口を揃え「それは呑んべい道を知らん奴や」 元教師はさらに続けて「酒を讃える歌には大伴旅人が有名だが、どこかコンプレックスがあるようで俺は好きでない。やはり李白の詩がよい。 ところで」 と一息ついて元佛教の大学の教授に「昔から葷酒山門に入るを許さずとあるが」と言いかけると元教授が遮り、「それは違う。あれは許さざるに葷酒山門に入ると読むのや。入ったものは何とかせんとあかんやろ」と真顔の返事。これには一同爆笑。 ついに私にお鉢が回ってきた。 「お前は俳句をかじっているそうやな。短歌では牧水を知っているが、俳句で酒の名句を教えろ」と元教師が酔眼で言う。 自分では酒の駄句は作っているが大家の名句など不勉強で記憶にない。何とかその場はごまかした。 翌朝、講談社の「現代の俳句」や手もとにある作家の句集をみたが、酒に関する俳句のあまりに少ないことに驚いた。愛酒家も多いと思うのだが、酒は日常つきまとうが脇役であるためか?畏友阿部完市は牧水のように酒に淫せねばなかなか秀句はできないのではと言っているのだが…。 石塚友二の句が目についた。 ひとり飲むビール妻子に何頒たむ 冷酒やつくねんとして酔ひにけり 泡盛や汚れて老ゆる人の中 山頭火 今日も事なし凩に酒量るのみ 恥ずかしいけれど風信旗 おでん酒古事記の神の陰ゆたか 人間を焼く間のビールに酔っている以上 (本文及び俳句の表現で、ふりがな表示が括弧書きになっているのは、インターネット・システムの制約のためです。ご了解ください・・・事務局) |