関西現代俳句協会

2006年3月のエッセイ

「遣新羅使の墓」 尾崎青磁

  年をとってくると、夢やロマンの意識に欠けるとよくいわれる。俳句にいそしんでおられる皆さんは、そんな事も無いだろうが、それを意識してか、私は一応好奇心は強いほうだと思っている。ところが、世間一般の好奇心と違って、骨董品には縁が無いが、古い事物にあこがれる癖がある。学生時分からの歴史好きが昂じてのことだが、仕方ない。そんな事で、吟行も歴史に関係ある土地に行きがちだ。

 去年12月のこの欄に中井不二男さんが「島めぐり」と題して書かれたことを受ける形で、私もその旅の中の一つ、壱岐の島での印象を語ろう。

 それは2001年8月のことであった。旅の仲間は山本千之,中井不二男、増田耿子の4人である。はるばる北九州の呼子の港を出た一行は、本土と壱岐・対馬を繋ぐフエリーで、先ず玄界灘の壱岐の島に向かった。快晴のこの海には時折飛び魚の滑走する様も見られ、格別である。

     玄海の潮に切り込む飛魚の翅    青磁

     飛魚跳ねて壱岐に万余の船襲来  青磁

 壱岐の島に近く、思いは飛魚に乗って、はるか725年前の元の来寇に飛んだ。自作の句に歴史を織り込みたいのは、以前からの思いである。かって『一粒』34号に「俳句と想像力」と言う小論を書いたのも、この蕪村に始まり明治の文人達に愛された詠史を実践したいと考えるからだ。

 今更言うまでもなく壱岐は朝鮮半島と日本の挟間にあって、元の来寇始め幾多の辛酸を舐めている。

     白南風や玄海波に湧くごとし    青磁

     炎昼の溟きに在りて元の船     青磁

壱岐は山も低く、平地の多い島である。町並みは特に本土と変わらない。到着した印通寺港でレンタカーを借り、島内を走った。此処は魏志倭人伝による一支国の首都の跡、原の辻遺跡が今発掘の真っ最中である。しかし、私の興味はもっと時代の下がる万葉集の時代にあった。当時は、遣唐使より以前の遣新羅使の時代で、航海術も拙劣ですべては神の加護を当てにしての行動である。遠く奈良から壱岐を経て新羅国に使いする役人たちは随分心細かったに違いない。病に襲われる人もあったようだ。実はその一人雪連宅満(ゆきのむらじやかまろ)という若者の墓が、緩やかな段丘上にある小さな森に囲まれた畑地にあり、長い年月を経た今も侘しい姿を残していた。

宅満は恐らく二十代の若者。陰陽師だったとも言う。万葉集に作品一首を残して知られている。

  大君の命恐み大船の行きのまにまに宿りするかも   雪宅麻呂

暗い森を背景に、崩れかけた盛り土の上の小さな石塔。島人たちの心づくしの傾いた墳墓が、哀れを誘った。

    鬼百合や壮途に逝きし陰陽師     青磁

    御使いの墓に海鳴り芋の花      青磁

 去り難い思いでこの墓を離れたが、最後に印象を残したのも、もっと時代も後の徳川時代の欠けた墓であった。その昔、芭蕉と共に「奥の細道」を歩いた、俳人曾良の墓である。曾良については今更言うまでもないが、芭蕉との別れの後、幕府の巡検使としてこの地を訪れながら病に倒れたという。雪宅満にしろ曾良にしろ、役目でこの地を訪ねながら不慮の病に倒れた共通点を持つ二人に、共通する物が感じられた。壱岐の島は私にとって最高のロマンをかき立ててくれる島であった。

        夏草の島に筆擱く曾良日記      青磁

                                                以上

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